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なぜ鹿児島?なぜ進学校? ~ラ・サール高校創立の経緯~

玉木康博 27期


■日本最初のラ・サール高校は、函館のはずだった!
 ラ・サール会の公式記録によると、1932(昭和7)年にラ・サール会の修士4人が、初めて来日し函館に到着したとあります。それは、当時函館教区を担当するカナダ・ドミニコ会からの要請で、函館に学校を設立するためであり、事実1934(昭和9)年には函館・湯の川に土地を購入し(現在の函館ラ・サールの敷地)、1936(昭和11)年には学校設立(旧制中学五学年)が決定されましたが、軍要塞司令官から中止命令を受け学校は設立されませんでした。これは、函館が「要塞地帯」に指定されており、購入した土地が函館港を見下ろせる高台であったためと言われています。
 そのため、ラ・サール会の修士達は函館を離れ、仙台へ移ることになります。

■終戦後、学校設立場所を探し求めるラ・サール会
 太平洋戦争が終結した後、ラ・サール会は函館に所有していた土地に学校設立を開始しようとしましたが、既に購入前の所有者に返却されていた土地の返却が遅々として進まず、ラ・サール会としては当面、仙台を拠点として新しく学校建設が出来る土地を探して全国を回ることになります。その間の1948(昭和23)年、仙台修道院および養護施設「光ヶ丘天使園」が落成・開所となりました。(なお函館の土地は1952(昭和27)年に正式にラ・サール会に返還され、1960(昭和35)年には函館ラ・サール高校が開校することとなります)
 ラ・サール会のブラザー達は、青森や静岡、鎌倉などあちこちに足を運び学校を開設しようと試みましたが、うまくはいきませんでした。その全国行脚の途中で鹿児島とラ・サール会の奇跡の出会いが生まれることになります。

■小松原に建設されたラ・サールの礎
 鹿児島におけるカトリック布教活動は、大正時代にフランシスコ会が奄美地区で布教を開始、1928(昭和3)年には小松原にあった島津公の別邸を購入して、1930(昭和5)年に修道院・教会を建設しましたが、その後官憲の圧力によりフランシスコ会が退去を余儀なくされ、残された施設は東京・暁星の教師をしていた七田八十吉神父が管理を任されることとなりました、この施設こそが、後にラ・サール高校の校舎となり、平成の今も一部が現存するブラザーハウスなのです。
 またこの施設は、ラ・サール高校が開校する前の1944(昭和19)年~1948(昭和23)年まで、純心学園が使用しております。(この頃の純心もまた、鴨池の飛行場が見下ろせる高台にあったため軍部の反感を買い、追い出されて小松原に移転したといわれています)

■GHQの教育政策は鹿児島教育界の憂慮に
 戦後GHQは、教育の機会均等、男女共学をうたい、学制改革で小学区制を推進しました。そのため鹿児島では、戦前の名門鹿児島一中、二中が男女共学の鶴丸高校、甲南高校となり、県下から優秀な生徒が参集した大学区制は小学区割へと移行し、有識者の間では学力の低下と風紀の乱れが憂慮されていました。
 これらの占領軍には遠慮しながらも、内心では教育の行く末について大きな不安を抱いていた鹿児島の有識者の意を受け、七田神父はローマ教皇庁公使館に対し、男子教育の修道会へ鹿児島での学校建設を要請することとなりました。
 しかしいずれの修道会も、まずは自らの学校の戦後復興に忙しくなかなか話が進まないため、七田神父は自ら日本全国を行脚して長崎の海星や東京の暁星、マリア会等に交渉を重ねましたが断られたまま、ある日田園調布の教会に宿を求めます。
 その同じ日、ラ・サール会の2人のブラザーもまた、函館に代わる学校建設地を求め全国行脚しており、静岡での交渉が破れて仙台に戻る途中で田園調布の教会に宿を求めています。こうして奇跡の出会いが生まれたのです。

■鹿児島でのラ・サール高校誕生は「勘違い」から?
 田園調布の教会でラ・サール会の2人のブラザー、メリ一・マルセル(通称グラン・マルセル、マルセル・クーリッシユとの説もあり)とマルセル・プティに出会った七田神父は、さっそく鹿児島に学校建設を懇願しますが、当時の鹿児島は仙台からあまりにも遠すぎるとの理由でこの時は断られてしまいます。
 その後も諦めきれない鹿児島側は、七田八十吉神父の弟である七田和三郎を仙台に差し向け、再度ラ・サール会に強く要請したようですが、前述の理由等により回答は芳しくなかったようです。
 その後1949(昭和24)年、仙台のラ・サール会に「北九州に良い土地がある」との情報がもたらされ、視察に出かけたグラン・マルセルでしたが、目当ての土地は一足違いで既に売却されており、目的は果たせませんでした。
 その時グラン・マルセルは、せっかく九州まで来たのだから、何度となく学校設立をお願いに来る七田神父らに誠意を持って断るためにも、鹿児島まで足を伸ばすことにしました。
 鹿児島に到着したグラン・マルセルは、その日は時間も遅かったため七田神父との面会は翌日とし、いったんザビエル教会に投宿します。翌朝目覚めたグラン・マルセルが目にしたのは、教会に来ている大勢の男の子達の姿でした。
 グラン・マルセルはザビエル教会の神父に、「鹿児島にはこんなに多くのブラザーとなる男子がいるのか?」と問われ、神父は「そうです」と答えたものだから、「鹿児島にはラ・サール会が望むブラザー候補の人材がたくさんいるじゃないか」と思い、一夜で考えを変え学校建設容認に舵を切ったのだと2007年にインタビューした際の大友成彦先生(5・7代目校長)はおっしゃっていました。大友先生がおっしゃるには、「たぶんその時の男の子達はボーイスカウトのメンバーだったと思う」「神父は、九州には長崎もあるしたくさんのブラザー候補はいるだろう」との意味で返答したのだろうけど、グラン・マルセルは「鹿児島にたくさんいる」と勘違いしたのだろう、と笑っておられました。
 何にせよ、これでラ・サール高校が鹿児島に誕生するスタートが切られたのです。
 この後、フランシスコ会鹿児島教区が管理していた小松原の土地と修道院をラ・サール会が5,000ドルで買収することになるのですが、この時の5,000ドルはカナダの市民が1ドルずつ寄付して集められた浄財だというのは広く知られた話ですよね。

■ラ・サール創立のキーマン達
 ラ・サール会の承諾を得ると、当初から鹿児島に男子校教育を創設することに尽力していた松村鉄男弁護士とその長男・野田文彦(現同窓会長・野田健太郎の父)、七田八十吉・和吉神父兄弟、医者の東条経治は早速開校準備を進めます。彼らは「何よりも県下の最優秀な人物を集めて、教育陣の充実に万全を期することが先決である」との考えから、その中心人物として大口にいる井畔武明に白羽の矢を立てました。
 井畔は、広島・江田島の海軍兵学校で文官ではあるが大佐級の教官でした。終戦後は郷里・大口に戻って農業をしながら週三回牧園高校に出講していましたが、占領政策の余波による放任に近い自由教育の実情、男女共学による道義性の退廃、学力の低下等について慨嘆していた時でした。
 一高の大先輩であり、戦前から立派な精神家として尊敬する松村弁護士とその長男・野田文彦から懇請を受けた井畔は、鹿児島に優秀な男子高校を建てることには大いに賛成でしたので懇請を受諾し、この後副校長としてラ・サール高校の基礎を作る中心人物となりました。
 井畔副校長と学校の事務を総轄する野田は「よい学校を創る」ためには立派な教師が必要だと考え、まず初めに優秀な人物集めに取りかかりました。地学の山口志磨雄は井畔副校長の大口の後輩で遠縁、英語の猶野耕一郎は野田と七高の同期と言う具合に、知人・友人を通じて集めた教師には、生物の久木田民三や社会の芳即正、数学の大塚秀夫、体育の鶴留和男ら錚々たるメンバーが顔を揃えました。

■なぜ校名が「ラ・サール」?
 若干31歳で初代校長に就任することとなったマルセル・プティの学校づくりに対する基本的な考え方は「郷に入ったら郷に従え。日本の風習を大事にし、特に鹿児島の強く厳しい人たちが多い土地にあう学校にしたい」というものでした。
 一方、井畔・山口らの教師達が考えた「良い学校」とは、ミッションスクールが持つ金持ちでハイカラなお坊ちゃん学校のイメージではなく、全国から選り抜かれた秀才が集まった地方的バンカラの気風があり、質実剛健ではあるが知的にも優れた人間がスポーツと学問に打ち込み、お互いに切磋琢磨しながら自己を作り上げていくといったものでした。この考え方に、プティ校長も了解し、開校前の職員会議では「ペストスクールの中のベスト(Best among the Best)になるように頑張リましょう」との有名な発言がありました。
 また学校名を決めるにあたりグラン・マルセルから「暁星」とか「明星」といった日本的な名称を提案された井畔は、「ラ・サール会の学校なのだからストレートに”ラ・サール”ではどうか? ありふれた名称ではなく、聖ジャン・バチスト・ド・ラ・サールの教育理念を引き継ぐにふさわしい、新しい戦後日本の南端・鹿児島に誕生する男子高校として爽やかな響きをもっていると思うが?」と反論し、グラン・マルセル他一同の賛成を得、ここに晴れて「ラ・サール高校」が誕生することとなりました。
 なお大友先生は、開校に大きく寄与して下さった当時の官選知事で2期・重成致の父親でもある重成鹿児島県知事も「ラ・サール」という校名を推して下さったとも述懐されておられました。

■1期生と2期生が同年入学のなぞ
 ラ・サール高校が開校したのは1950(昭和25)年4月10日ですが、この時の入学生は現在の1期生と2期生、すなわち高校2年生と1年生が同時入学となっています。(正確に言うと、1年生は「入学試験」により選抜され、2年生は「編入試験」により選抜されています)
 なぜ新高1(現在の2期生)だけでなく、2年生も同時に入学されたのかについては、大友先生をはじめ先輩方のお話を総合すると次のような理由によるもののようです。
 戦後GHQが主導した学制改革により、1947年4月には旧制中学校の新規生徒募集が廃止され、現在と同様の新制中学1年生が入学することになります。(この時の2年生、3年生は旧制中学生であり、卒業すると新制高校に進学する事になります)
 つまり、ラ・サール高校が開校した1950年4月時点では、初めて新制中学で1年から3年までの3年間を過ごした卒業生(LS2期生)が高校に進学することになっていたのです。
 学校の基礎作りの中心であった井畔副校長は元々海軍兵学校の教官であったこともあり、旧制中学の教えを受けた先輩がいる事が前述の「良い学校」づくりには必要だ、との考えを持っていたようです。しかしその「最後の旧制中学経験者」は、開校直前の1950年3月では既に他の高校の1年生で2年生に進学する世代であったため、「鹿児島の男子校教育の継承」を掲げて各高校の優秀な1年生に声をかけ、編入試験を受けさせることにしたとのこと。このことは、大友先生他、井畔副校長の長男である1期生の井畔瑞入さんもお話しになっています。ある意味「引き抜き」みたいな行為ですが、この時の編入試験には88名が受験し、30名が合格しているのですから、やっぱり「鹿児島の男子教育の継承」というのは鹿児島教育界の望みであり、ラ・サールの開校は望まれていたのだという話はまんざら間違っているわけではないのかもしれません。
 ちなみに同時期に入学試験を受験した2期生は382名で、合格者は160名、2クラスであったとのことです。開校前から競争率2倍を超えていたんですね。

■鹿児島のみならず日本が感激した開校式
 こうして1950(昭和25)年4月10日、小松原の現ブラザーハウス前において開校式および入学式が挙行されました。
 この時代の日本はまだ戦後の占領下であり、日本人としての行動にはさまざまな制約があったようですが、ラ・サール高校は経営者が外国人(修道会)のためGHQに気兼ねする必要もなかったことや、マルセル・プティ校長自身が「日本人が自国の国旗と国歌を愛するのは当然のこと」という考え方でしたので、開校式では「日の丸」が掲揚され、「君が代」を斉唱したと伝えられています。
 これはその当時としてはとても考えられなかった出来事で、1期・2期の先輩方や先生方のお話では、参列した人々が感激して涙を流す人もいたとのことです。
 こうして、2020年には創立70周年を迎えんとするラ・サール学園が歴史を刻み始めたのでした。

 以上、ラ・サール会がなぜ鹿児島に、しかも進学校を創ったのか、について私が知る範囲でのお話を書かせていただきました。
 この情報源は、たくさんのブラザーや先生方、先輩方からご提供いただいた資料やお聞かせいただいた内容を私なりに整理させていただいたものです。
 何せ70年近く前の話ですので、大まかな話に齟齬はないと思っておりますが、細かい内容まですべて正しいかどうかは今となっては検証の術がありません。悪しからずご了承下さい。
 また、文中の敬称は略させていただきました。

(文責・玉木康博・27期)
◆参考文献:「ラ・サール高校の創立(岡崎道子著)」(井畔瑞人氏(1期)、紘一氏ご兄弟提供)
◆資料提供:大友成彦先生(ブラザー、5・7代校長)、牧本次生氏(4期)、津曲貞利氏(24期)、三毛紀夫氏(25期)、他

(ご協力いただいたみなさまに心より感謝申し上げます)